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東欧諸国の激変

EMSはドルにたいする共同フロートを特徴とするヨーロッパ機関の通貨体制である。国際収支の赤字にさいしてはヨーロッパ通貨基金(EMF)から金融援助が行なわれる。EMSを守るためには、各国の経済政策の協調が必要となり、七〇年代から中期経済政策が定められているが、石油ショック以降の経済困難により、これを守ることは八〇年代末までできなかった。ただし各国ともこの時期には経済安定のための協調、産業・農業構造の近代化に力をいれた。また、七三年にはイギリス、デンマーク、アイルランドが加入し、拡大ECが実現した。八一年にはギリシア、次いで八六年にはスペイン、ポルトガルが加盟し、ECは現在二一国から成っている。七〇年代をつうじて、EECとEFTAのあいだにも工業製品についておおむね自由貿易が成立した。

第三の時期は一九八〇年代で、この時期の前半にはECのもつ困難が大きくなり、経済統合は一時足ぶみした。八〇年には経済通貨同盟に加えて政治面の統合をすすめたヨーロッパ同盟に移行するとの日程表も、大幅に遅れた。このため、八五年末の首脳会議で、多数決制の導入、市場統合の障壁レビュー(検討)など域内統合を促進する決定がとられ、八六年にローマ条約を初めて大幅に修正しか「単一ヨーロッパ議定書」翌年から発効した。これは、統合市場に関する物理的(税関の規制など)、技術的(財・サービス、資本、人間の自由移動に関する基準や認証制度)、財政的(付加価値税・間接税の相違)障壁を二八二挙げて、一九九二年末までにこれらを除去し、「モノ・カネ・ヒト・サービス」について単一の統合市場
を発足させようとするもので、九〇年六月までに財、資本の自由移動については、平均して五五%の目標達成を示している。

ただし、付加価値税・。間接税の税率、会社法や知的所有権の統合については遅れ気味であ兪二半素器ア市場統合の進展はヨーロッパ経済を大きく活性化させ、経済成長率も八〇年代前半の平均年二%から後半には三-四%へと高まっている。九〇年秋には、それまでためらっていたイギリスがEMS加入を発表し、九三年一月以降、ECが新たに内包的統合をすすめる条件が整いつつある。ECの進展にはいくつかの問題点もある。まず、今日ECには新たな加盟申請が殺到している。オーストリア、トルコに加えて、八九年中に政治的変革を達成したポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーがいずれも加盟の意思を表明している。かつてEC加盟を国民投票で否決したノルウェー、そしてスウェーデン、フィンランドの北欧諸国もEMSと自国通貨を連動させる意思を表明した。

ECは九二年統合を優先させて、新加盟の問題は九三年以降に審議する、とのべているがJECをどこまで拡大ずるのか、あるいはいまECが行なっているように、EFTAとの協議、あるいは新しく発足した中欧経済協力会議と協議を行なって、ゆるやかなヨーロッパ経済空間(European Economic Space)設立による大ヨーロッパ形成をめざすのか、という問題がある。ドイツ統一により、かつてのオーストリアーハンガーリー(ハプスプルグ)帝国の版図内にあった諸国の間で、新たに「中央ヨーロッパ」としてのアイデンティティと共通の関心が高まり、一九九〇 一年八月、イタリアのベネチアにイターリア、オーストリア、チェコスロバーキア、ハンガリー、ユーゴスラビアの五か国首脳が集まり、経済協力会議が開催され、運輸通信、環境文化・観光、情報交換などの面での協力を約束した。

第二に、ECのアキレス腱は先進・後進地域の格差問題にある。西ドイツ、フランス、オランダ、ベルギーなど高所得国とアイルランド、ギリシア、スペイン、ポルトガルなど低所得国との格差、さらに同一国内での先進地域と後進地域の格差も大きい。このため七〇年代後半以降、ECは社会基金、地域開発基金、農業指導保証基金中の構造改善指導部分(この三基金の年支出額でEC予算の約一五%)を後進地域開発、雇用創出にむけている。ローマ条約の前文では、「異なる地域間の差異を縮小し、恵まれない地域の後進性を緩和することにより、各国経済の一体性をつよめ、調和的な発展を保障する」とうたわれているが、いまみだような諸格差の存在が、不況期に各加盟国経済政策の調整をむずかしくする傾向がある。ここから八五年にはグリーンランド(デンマーク自治領)が、後進地域開発や漁業問題に関する不満から、EC最初の離脱地域となった。

民主主義発展委員会が検討した政治改革の課題

民主主義発展委員会は法学者など58名の委員で構成し、委員長に任命されたのは、当時マヒドン医科大学副学長で、草の根NGOの理論的指導者として知られるプラウェート・ワシー医師であった。この委員会で活躍したのは、チュラ・ロンコン大学法学部のボーウォンサック・ウワンノー(チャートチャーイ政権の顧問団のひとり)を中心とする学者グループである。彼らはタイに望ましい政治体制や選挙制度を検討するために研究会を重ね、短期間の間に15冊に及ぶ報告書を委員会に提出した。この学者グループの議論が1995年4月の提言に繋がる。さて、民主主義発展委員会が検討した政治改革の課題は多岐にわたった。ただし主たる目的は、政治の腐敗の根底にあると彼らが考える「農村の政治」の刷新にあった。

例えば、上院・下院の二院制に代えて「下院・良識院・顧問院」の三院制を構想したのは、農村部から選出される下院議員を、大卒者で構成する良識院でコントロールするという発想に基づいていた(これはのち、下院議員の資格を大卒以上にするという新憲法の規定に発展する)。あるいは従来タイが採っていた「中選挙区制」(1区3名が上限)は、議員が集票請負人を使って買票行動に走る原因のひとつとして批判の的になった。代わりに彼らが提案したのは、「小選挙区制」(1区1名)と政党の名簿方式による「比例代表区制」である。前者は組織的な買票行動に頼らない選挙、もしくはカネより選挙民との日常的な信頼関係に基づく選挙を可能にし、後者は選挙民の利害から切り離された政党本位の議員の選出を可能にすると考えたからである。したがって選挙制度を変更し、選挙管理委員会が選挙活動を監視し、議員の資格を厳格にしていけば、政治の浄化は進むと彼らは判断した。ただし、こうした改革を進めるためには、現行憲法の全面的な改正が必要である。

その結果、政治改革の議論は新憲法の制定へ、そして新憲法を審議する憲法制定議会の設置へと一挙に向かった。1996年12月に発足した憲法制定議会は、全国76県から選出された代表760名からなる。その職業的内訳は、弁護士36%、実業家23%、官僚20%であり、農民代表は5%にも満たなかった。この事実は民主主義発展委員会の意図が、都市中間層の支持を背景に「農村の政治」をタイから追放する点にあったことを示唆する。この間の経緯を詳細に追った玉田は、プラウエード委員長の「政治改革」(1995年)の自画自賛の内容を紹介しつつ、民主主義発展委員会の提言には「農村部や弱者に配慮する視点がすっぽりと抜け落ちている」と痛烈に批判している。憲法起草委員会がまとめた草案は次の8つを骨子とする。第一に、軍政復帰を招くような選挙の洗礼を受けていない首相の任命を禁止する。第二に首相に対する不信任案の提出要件を、従来の議員の4分の1以上から5分の2以上に引き上げ、首相の地位を強化する。第三に不正な選挙活動、国会議員の政治汚職を防止するために独立のモニタリング組織を設立する。第四に買票行動の温床となった中選挙区制を廃止して、小選挙区・比例代表区制を新たに導入する。

第五に議員の資格を大卒以上とし政治家の質の向上を図る。第六に閣僚の就任が議員の利権漁りに結びつくのを断ち切るために、閣僚の議員兼任を禁止する(閣僚に就任すると議員資格を失う)。第七に上院議員の任命制を廃止し、下院と同様の選挙制に変更する。第八に国民の基本的権利を憲法で明確に規定し、その権利を国家が保障する。このうち第五の議員の大卒資格は、最終草案ギリギリの段階で新たに加わったもので、国民の大多数を政治から排除する時代錯誤の制限選挙として、強い批判を浴びた。以上の内容をもつ草案は、現職議員の既得権益を大きく侵害するものであったから、国会での採択では強い抵抗が予想された。そのため「五月流血事件」のさなかに誕生した「民主主義キャンペーン委員会」アーナン元首相を中心とするグループが、大量のパンフレットや解説本を作成して配布し、市民集会で新憲法の歴史的意義を訴えた。

彼らは緑色をシンボルカラーに決め、パンフレットの表紙は緑色、活動員も緑色の鉢巻を締めて活動した。「黄色のシャツ」ならぬ「緑色のグループ」の登場である。新憲法は、1997年9月27日に下院・上院の合同議会で採決にふされ、その結果は賛成578名、反対28名、棄権17名であった。新憲法推進派の当初の悲観的な予想に反して、圧倒的多数の賛成のもとで可決されたのは、同年7月に通貨危機が発生したからである。国会での審議が始まった9月はタイの通貨危機が金融危機、さらには経済危機へと発展していく正にそのプロセスと重なった。その結果、経済危機を克服する唯一の手段は政治改革という機運が一気に高まり、逆に新憲法に反対する勢力は、非国民扱いを受けかねない雰囲気が生まれた。実際、10月11日に新憲法が公布されると、政治改革の熱気は一気に冷め、代わりに経済改革が声高に叫ばれるようになるのである。

政治改革の中心に常にいたボーウォンサックは、憲法起草委員会報告書のなかで、新憲法の狙いを次の3つに整理している。第一に議会制民主主義を市民参加型に変えることによって、政治家の政治を市民の政治に変える、第二に市民の監督権限を強化することで、政治・行政制度における権力行使を誠実で正当なものにする、第三に国家が直面する諸々の問題を解決することのできる指導力のある首相を選出する。このうち第三の指導力のある首相、つまり「強い首相」は、1997年憲法のもとで最初に実施された2001年1月の総選挙で実現した。すなわちタックシン首相の登場である。しかし彼の話に移る前に、新憲法の公布のあと発足した第二次チュワン政権の政治運営を紹介しておこう。

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「安保政策」からの転換

戦後の日本は、世論や民衆運動の反対もあって、日本だけについていえば、あるところで軍備増強を抑えてきました。しかし、世論や民衆運動による抑制の結果として、軍備の危険がどうにか比較的小さく抑えられてきたにもかかわらず、その結果だけを切り離して、一つの既得権益のように享受する傾向を生じた。ところが七、八〇年代になって、激動する国際情勢に強い不安をいだくようになった。そうすると、軍事力をふやせば何か安全度が増すのではないかという、非常に素朴な幻想をもつようになる。たとえば、軍事費をGNPのでパーセント強にすれば今より安全になるだろうとか、ある財界人のように、ニパーセントにすれば北海道は守れるだろう、といった期待をいだいたりしはじめました。しかし、軍備をふやせば安全度が増すかといえば、そうでないことは、米国やソ連の例を見れば明瞭です。いくら軍備を増しても安全ないし安全感は増さないどころか、かえって不安定や脅威感が高まっている。

軍事力と安全度とは別なのです。たまたま戦後の日本人は、いままで比較的に軍備が少なく、したがって軍備増大が安全増大に結びつかないという経験が乏しいため、軍備をふやせば安全が増すだろうという安易な幻想にとらわれがちになったのです。ここでも戦後の利点が裏目に出はじめている。しかし、世界の軍事化はむしろ表層の現象であって、その奥にもっと深い不安定化の根があることは、くりかえし述べたとおりですから、軍備をふやせば安定が増すというのは、まったく短絡した発想であり、非現実的な幻想であるといわなければなりません。その通りだと思います。近年もっとも気になりますのは、国民意識が既成事実に引きずられがちであることです。平和の問題のみならず、さまざまの領域で矛盾や課題を知りながらも、改善や改革の道をおそれるという状況が国民意識にみられます。

この閉塞状況をうち破るために必要なことは、やはり、予見的な問題提起と現状に代わる具体的な構想だと思います。日本の軍事化に代わる道をどのように私たちは求めるべきか、お話をすすめていただきたいと思います。では日本の軍事化に代わる道とはなにか。一言でいえば、まず、私がいう意味での「安保政策」をやめることです。安保条約の「即峙廃棄」は絶対不可欠の条件ではない。「安保構造」を変革することは一朝一タにはできない。早急に必要なことは、政策の基本姿勢を変えることです。東と南に対する西の優位を軍事力に依拠してでも維持しようという姿勢をやめて、平和で公正な世界秩序を指向する行動を、手遅れにならないうちにとるということです。しかも、これは日本自身の問題なのです。つまり、五〇年代とは違って日本が大幅に米国を追い上げた八〇年代には、米国(やソ連)に向かって軍縮や核廃絶を訴えるだけでない。

それに先立って、あるいはそれに並行して、日本自身が非軍事化のイニシアティヴをとることが必要だし、可能なのです。もちろん日本のなすべきことは多々ありますが、ここでは「安保政策」からの転換にとって最小限必要な条件をいくっかあげておきたいと思います。一つは、安保条約をめぐる日本側の中国に対する基本姿勢です。中国は五〇年代、六〇年代を通じて、「米帝国主義」と「日本軍国主義の復活」を示すものとして、日米安保にきびしい批判を向けてきました。しかし七〇年代後半には、先にも話に出たように、日米安保をむしろ積極的に評価する態度をとり、それまで日中友好運動の一環として安保に反対してきた日本の革新勢力の間に困惑と混迷を生み、安保反対運動を弱める一因になりました。

自給自足が原則の山地

「大地の母、地底の国に住む首長」とたたえる言葉に始まり、同じように豊作を祈願するものだった。儀礼が終わり、家族とほかの村人、合わせて20人あまりが一緒に食事をした。みんな継ぎはぎだらけの野良着を着、裸足である。わたしもその輪に加わった。ソピエット家が用意した飯包み、葉につつんだ鶏肉粥と川魚煮のおかず、細い竹筒に入れた濁酒が配られた。それはトウモロコシを発酵させたもので、赤米の濁酒よりも甘みがなく、爽やかな酸っぱさがあった。出作り小屋のなかや表の地面にしゃがんで思い思いに食べた。料理には、青い稲の匂いが染み込んでいるような気がした。

「いま、去年の米は底を尽きかけているのに、今年の米はまだ取れない。節約しなきゃいけないので、どうしても腹いっぱい食べられないんだよ。毎日の草取りで疲れも溜まってるし、蚊やブヨも多くてね。雨にも打たれるから、病気にもなりやすい。どこの村も、1年中で今が一番辛抱のしどころだよ」ソピエット・ノーさんは面長の苦みばしった顔の表情ひとつ変えずに語る。50ちょっと前の彼には、妻と6人の子供がいる。髪や眉や薄い髭に白いものが混じっている。「それにしても、やっと早稲が実ってくれたんでよかった。でもね、稲穂が次々と出てくるこれからしばらくの間が大事なんだよ。花が咲いてるときに嵐でも来たら大変だ。だから、こうやって精霊を祀るんだよ。稲を護ってくれますように、稲魂がちゃんと宿って豊作でありますように、ってね」「稲魂はいつも必ず宿っているわけじゃないんですか?」「宿ってるはずなんだよ。けれど神話にもあるように、稲魂は何か嫌なことがあると逃げ出したりするんだ。だから、せっせと草取りや鳥追いをして、猿や猪などを見張るのさ。稲魂よ、どこにも行かないでください、と願うんだよ」彼はわたしに教え諭すかのような穏やかな声で答えた。

市場や店もなく、自給自足が原則の山地では、食糧は自分でつくり、手に入れるしかない。家族みんなで1日1日食べていくこと自体が一大事業と言ってもいい。稲の出来、不出来は、暮らしを左右するいわば生存の条件なのである。だから村人たちは「稲魂がちゃんと宿ってくれますように」と心の底から祈る。わたしはマナオの大祭で見た、稲魂呼び戻しの儀礼を思い出した。同じような儀礼を不作の年に、収穫が終わった焼畑の出作り小屋でも行うという。「稲は古来、種籾から芽が出て茎と葉になり、穂が出て実を結び、それがまた次の代の種籾になり」という風に植物のひとつの種として生きながらえてきた。稲籾の一粒一粒には、かつて野生植物だった大昔からの連綿たる命が蔵されている。気が遠くなるような過去から現在までつらなってきた生命の時物語が結晶している。未来の生命へと繋がってゆく予感がはらまれている。それらはあの小さな粒のなかで、眠っており、息づいている。稲籾は焼畑にまかれ、草木の灰や虫の骸や微生物が入りまじった土壌に培われ、日と雨と空気にはぐくまれ、時いたれば実る。

一粒の内に秘められた生命の時間・物語が、外の自然から恵みを受けて生長のきっかけを得、先代、先々代、さらに昔の稲と同じように命を新たに伸ばしてゆく。そしてまた結晶する。そんな営みが毎年繰り返されてきた。籾にはらまれた生長の可能性も、自然の恵みがなければ芽ぶき伸びていかない。生かされる場と縁が必要なのである。土壌養分や水分や光や熱など色々な自然の精力が、根から葉から稲の内に入り、一粒一粒に結実する。だから、粒に秘められた生命の時間・物語の結晶とは、同時にそれが生かされる場・自然の精力が凝縮したものでもあるはずだ。ふたつは根元においてひとつである。それが稲の魂と呼ばれるのかもしれない。同じようなことは、稲だけでなく、ほかの農作物、草や木、さらに植物だけでなく、虫、魚、鳥、獣などすべての生き物についてもいえるのではなかろうか。そうすると、人間にもあてはまるはずだが。

「おい、あんた。いい気持ちになってるみたいだな。どうだい、トウモロコシの濁酒もあっさりしてて旨いだろ」という声と同時に、肩に手を置かれた。振り返ると、色白の痩せた顔に深いしわの寄ったラヨ・ノーさんが、白くなりかけたドジョウ髭の口元をほころばせている。「本当は、赤米でつくったこくのあるやつを飲ませてあげたいが、端境期だから今はないんだよ。雨季が明けて稲刈りも終われば、たっぷり仕込んで味わわせてやれるんだがなぁ。その頃まで村にいられそうかい」「それは楽しそうですね。いたいのはやまやまなんですが、もう一度マリ・クラン・ワロンやソマイ川峡谷の方に行くつもりなので、たぶん無理でしょうね。とても残念ですが」「そうか。でも、もったいないな。実りの季節が来れば、焼畑は金色に染まるし、腹いっぱい食えるし、しばらくは仕事もひまで、乾季には狩りや魚獲りがしやすくなるのに。雨季の大変な頃の村だけ見て行くというんじやなぁ」祭司の勤めを無事果たし、祝詞を唱えて渇いたのどを濁酒で潤し、上機嫌だったラヨ・ノーさんは顔を曇らせた。

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ビルマにおける憲法制定過程

クーデターに成功した国軍は、ソオマウン大将をはじめとする将校二一名から構成される国家法秩序回復評議会(SLORC)を設立、すべての国家権力を掌握した。デモに参加した公務員の処分が行なわれ、数万人の公務員が解雇された。デモや大衆集会は姿を消した。一部の学生はタイ国境まで退いて全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)を結成、少数民族武装勢力と合流して抵抗を続けたが、徐々に弱体化していった。また民主化運動の中心となった大学生の動きを封じ込めるため、軍事政権は一部を除き大学の閉鎖を何度かにわたって行ない、キャンパスを郊外に移転させたり学生寮を廃止するなどした。

これにより学生運動は大打撃を受けた。民主化運動が一九八八年九月の段階で成功しなかった最大の要因は、運動全体を象徴し、引っ張っていく指導者が最後まで登場しなかったことによる。長い間、野党の存在が認められなかったビルマでは、これは仕方のないことだった。アウソヂ准将やティソウ国防大臣、アウンサンスーチーらが集会を催していたが、彼らは運動全体を束ねたり、指揮したりはしなかった。アウンサンスーチーは同年八月の登場と同時に国民の絶大な人気を博したが、初期の彼女には最高指導者としての自覚がまだ十分ではなかった。クーデター直前に、学生代表がティソウーやアウンサンスーチーらに「あなた方がまとまって暫定政府設立宣言をしてください」と申し入れたが、アウンサンスーチーらは、これを断っている。

歴史に、もし、は禁物だが、この時学生の申し入れをきき入れて、暫定政府設立宣言をしていれば、状況は変わったかも知れない。軍部がっくったSLORCは、その国家法秩序回復評議会という名称どおり、直ちに秩序回復に乗り出し、民主化運動で国民が強く求めた複数政党制の導入と総選挙の実施を約束した。さらに経済体制についても、それまでの国有セクターを中心とする自給的、鎖国的な社会主義体制から、市場経済体制への移行に向けて積極的な姿勢を見せた。一九九〇年、軍政下の総選挙でNLD圧勝。軍事政権は、発足後一年七ヵ月たった一九九〇年五月二七日、三〇年ぶりとなる複数政党制に基づく総選挙を実施した。軍政発足時の公約を守ったものであり、選挙自体も、事前の選挙運動に対する厳しい規制と介入を除けば、公正なものだった。

投票の結果は、軍政発足後に設立されたNLDが圧勝した。NLDは総定数四八五議席の実に八〇パーセント、三九二議席を獲得したのである。選挙の前年、NLD書記長のアウンサンスーチーは軟禁され、NLD議長のティンウーも逮捕、投獄されていた。主な幹部を欠きながらもNLDが地すべり的大勝を収めたのは、国民がいかに軍政を嫌い、軍と対峙するアウンサンスーチーに熱い期待を寄せていたかの証である。だがSLORCはこの選挙結果を認めず、アウンサンスーチーの自宅軟禁解除も、政権委譲も拒否した。政権委譲を拒む理由として軍事政権があげたのは、ビルマにとって大事なことは政権委譲ではなくまずは新憲法の起草であり、NLDが八割の議席を占める新議会に憲法草案の審議を任せると内容が偏ってしまう、というものだった。一方で、軍政は、次のような憲法制定過程を示した。

(一)選挙で当選した議員は憲法制定のための議会(制憲議会)の議員に過ぎない。
(二)しかし、制憲議会は当分の間、開催しない。
(三)代わりに軍政が選んだメンバーによって構成される制憲国民会議を別個に設置し、新憲法の草案をつくる。草案の原案は軍政が提示する。
(四)憲法草案が制憲国民会議でまとまった段階で、当選議員から成る制憲議会を召集し、草案を諮る。
(五)制憲議会で審議・承認された案を軍政が最終的にチェックし、正式な新憲法案とする。
(六)それを国民投票にかけて国民の承認を求める。

軍事政権はこの六段階に何年かけるつもりなのか、期間に関する約束をいっさいしなかった。しかも、この論理では、一九九〇年の総選挙で当選した国会議員は憲法制定という限られた目的しか有さない議会のメンバーに過ぎず、それも別個に設置される制憲国民会議が憲法草案をつくり終わるまで出番はない。総選挙前に軍政はこういう考えを一度も示したことはなく、選挙に負けて突然、いい出したのである。当然のことながら、NLDはこれを政権委譲を先延ばしするための脆弁だとして、強く反発した。しかし、軍事政権はNLD所属の当選議員や党員を逮捕したり、議員当選資格を剥奪するなどして、同党の抵抗を封じ込め、軍事政権が独自に選んだ代議員七〇一人で構成される制憲国民会議を一九九三年一月に発足させた。この会議には選挙で当選した議員は九九人(ほとんどがNLD)しか含まれておらず、民意を反映したものではなかった。ましてやその後、一九九五年一一月にNLD所属の代議員全員が、制憲国民会議の議論の進め方が非民主的だとして会議をボイコットするや、軍政は彼ら全員を会議から除名したため、それ以降、総選挙の当選議員は同会議からほとんどいなくなってしまった。

政治的背景の状況
タイ・ビルマ国境からの報告

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影の薄いビジネス・エリート

高層住宅の値段は、最大の五LDKタイプで一八万Sドル(約一四OO万円)前後である。五LDKといっても、日本のマンションとは比べものにならないくらい広くゆったりしており、このような住宅を所有することで、国民に中流意識が芽生えるのは確実である。近年、シンガポール政府は、中央積立基金に蓄積された厖大な資金を保持しようと躍起になっている。世界経済の不安定化に備えて潤沢な資金を確保しておくためである。したがって、国民の高齢化によって貯蓄の引き出しが相次ぐのを政府は強く懸念し、五五歳の定年年齢をまず六〇歳に、その後六五歳に延長するという提案をしたと同時に、積み立てられた貯金を退職と同時に一度に引き出すことの弊害を訴えて、引き出しを自制するよう呼びかけている。「長年積み立てた大金を、一夜のうちに外国の賭青場ですってしまった」「貯金で次々に高価な物を買って、結局支払えなくなってしまった」などの例が新聞紙上に掲載された。

もちろん、定年の延長は、押し寄せる高齢化社会への対応でもある。しかし、定年を前に貯金の使い道を決めていた国民には不評で、「子供の留学資金にするつもりだった」とか「海外旅行を決めていたのに」といった声が寄せられている。定年が延長されればそれだけ強制貯蓄をさせる年限も長引くわけで、政府が巨額の金を国民に供出させていくという制度は変わらない。「シンガポールのビジネス・エリートの一つの特徴は、パワー・エリートになる、あるいはエリート構造の上層を占めるほどの力はなく、エリート構造の下層で影響力を発揮しているということである。ビジネスマンは、アメリカの場合のように、政策を決定するほどの強力な存在ではないし、政府に圧力を行使する力もない。パワー・エリートの主たる構成要素は官僚と政治エリートであり、専門職エリートが二次的要素になっている」これは元シンガポール国立大学経営学科教授の論文(一九八八年)からの引用であるが、まさに彼の指摘通り、シンガポールのビジネス・エリートは影が薄い。

その最大の理由は、人民行動党が地場の資本家を遠ざけ、彼らが輸出指向型工業化に参入するのを拒んだからである。それには経済的、および政治的理由があった。シンガポールの地場資本家は、そのほとんどが華人資本家である。彼らの多くは、戦前中国などからマラヤ、シンガポールへ裸一貫で移住し、勤勉さ、倹約そして先見性という個人的資質によって、主にゴムや鋳の商人として頭角をあらわしていった。また、シンガポールが東南アジアの金融の中心地となるにつれて、短期的な利益と社会的名声を求めて銀行経営や不動産業にも手を広げていった。戦前からの著名な地場資本家、例えば、タン・チェンロツク(陳禎禄)はゴム業と和豊銀行および華僑銀行、オウ・ブンホー(胡文虎)は売薬(タイガー・バームが有名)と崇僑銀行といった具合である。しかしながら彼らは、新しい製造業に対する心構えもできていなかったし、経営技術も持っていなかった。

彼らは、長期的な利益を考慮せねばならない製造業のリスクは、伝統的な商業活動よりも大きいと考えたのである。人民行動党の経済開発や企業振興は、したがって製造業への移行に躊躇する地場資本家を跳び越えて、国際資本に頼って進められた。製造業へ参入しようとする地場資本はあっても国家の保護育成という恩恵は受けられず、国際資本と対等の競争を強いられる。その結果、彼らは外国資本やシンガポール政府の政府系企業と競合しない分野である。商業分野に閉じこもってしまったのである。このような地場資本家の特質もさることながら、人民行動党政府が彼らを保護育成しなかったのは、彼らこそがシンガポールの華人社会を代表し、華人文化を伝承する中心的存在であり、リー・クアンユーら英語教育を受けたエリートとは対立する存在だったからである。戦前からの華人資本家は、氏姓・同郷・同業会館の会長や役員を兼ねるだけでなく、社会福祉や華語・華人文化教育への貢献がきわめて大きかった。

ゴム王といわれたタン・カーキー(陳嘉庚)は事業で得た利益を惜しみなく寄付し続けた社会事業家であった。長く華語教育の牙城であり、一九八〇年に人民行動党政府によって閉鎖された南洋大学も、タン・ロクサイ(陳六使)という華人資本家の寄付で設立された。だが、このような華人社会や華語学校は、日本占領時代は反日の拠点であり、戦後はマラヤ共産党の活動拠点となった。英語教育を受けたエリートにとって、華人文化はいわば民衆の文化であり、また野党社会主義戦線の文化でもあった。だから、華人資本家を保護育成することは、華人文化の育成に、さらには野党の勢力拡大につながると考えたのである。華人資本家にとってみれば、人民行動党が進める英語教育や国際資本の積極的な導入は、華人文化の伝統を意図的に没落させようとするものと考えられ、彼らは人民行動党の反対勢力、とりわけ社会主義戦線を支援し、資金援助を行なった。

新生イラクにおけるタルト

彼は「クルディスタン民主党」を結成し、ソ連に接近し支持を得るようになる。その後、1946年1月には帝国主義からのイラン解放とイラン国内のタルト族の自治を掲げて、ソ連軍進駐下で「タルト人民共和国(マハ・バード共和国)」の樹立が宣言された。イラン北部には同様にソ連軍の駐留下で「イラン・アゼルバイジャン自治共和国」(1945年12月~46年12月)が樹立されていた。クルディスタン人民共和国はアゼルバイジャン自治共和国と相互防衛条約を結びテヘラン政府の圧力に抵抗した。モハンマド・カーズィーは大統領に就任し、タルト語による新聞や雑誌の発行を開始した。3国に分断された国の一つイランにおいて史上初のタルト人国家が誕生したのである。しかし、この共和国の内部は一致団結とはいかず内部抗争が絶えなかった。

アメリカはこの自治政権をソ連の傀儡とみなし、ソ連のイランへの干渉として非難し、イラン政府はソ連の干渉として国連に提訴した。イランは北部地方の石油利権をソ連に与えると約束してソ連軍の撤退を促した。石油利権に食指を動かしたソ連が撤退すると、手薄になったアゼルバイジャン、タルト両国をイラン政府軍が攻撃し両国は崩壊した。パーラヴィー国王はムハンマド・カーズィーを公開で絞首刑に処した。1946年11月、初のタルト人国家は1年足らずの短命で消滅した。タルト語の印刷機は破壊され、タルト語の教育も禁止された。人々はタルト語で書かれた書物を焼き捨てた。1958年7月、イラクではアブドゥル・カリーム・カセムが反王政クーデターを起こした(7月革命)。クルド・ゲリラの指導者バルザーニはカセムから恩赦を受け、彼とその部族がバグダードに戻ってきた。

10月、バルザーニがバグダード空港に到着すると、タルト人は民族衣装をまとい、民族の歌と踊りで彼を迎えた。カセムはバルザーニをタルト民主党(KDP)の書記長につけることにより、タルト人を管理しようと試みた。カセムとバルザーニはお互いに腹の探り合いをしながら政略的に動いた。この次期には共産主義者が勢力を伸ばし共産党員2名が内閣改造に伴い入閣した。そして、共産党では多くのタルト人が幹部職をしめていた。1961年バルザーニたちはタルト地域の自治を要求した。また、7月革命後に改正されたイラク憲法にはタルト人はイラク領内におけるパートナーであると規定されており、タルト人にはイラク国内において民族的権利を認めることを明示していた。というものの、タルトの要求はカセムに受け入れられたわけではなかった。両者の溝は深まり1961年バルザーニとKDPがイラク政府に対して蜂起した。以後、イラク北部でKDPの解放闘争が続けられていったのである。1963年2月8日、バース党がクーデターを起こしカセムから政権を奪った。カセムは処刑された。

クーデター以前にバース党はKDPと協定を結んでおり、そのなかでバース党はタルト人の自治に理解を示すと表明していた。しかしながらクーデター後に正式な交渉が始まると両者間には大きな隔たりがあった。バース党政権の関心事はナセル主義、アラブ民族主義であった。イラク・エジプト・シリア3国間のアラブ連合樹立についての会議にクルド代表も出席していたが、4月の合意にはタルトのことは何も触れていなかった。66年に大統領に就任したラーマンはタルトに自治を認めない方針をはっきりと表明したが、バザス首相はタルトの自治を認める方針を宣言しており、彼は65年にタルトの代表団に15項目を提案しタルト側もこれを受け入れた。しかし、ラーマン大統領と意見が食い違ったバザスは辞任に追い込まれた。依然としてタルトの自治は程遠いものであった。タルトは常に自治を要求してきたがトルコ、イラン、イラクに分散された状況下で、それらの国々の政府は都合よくタルトを操ってきた。例えば、イラクとイランは1980年代初めから戦争状態に入ったが、両国は以前から国境問題を争点として争いが絶えなかった。

イランは自国のタルト住民に対しては自治を与えず押さえ込んできたわけであるが、敵対するイラクで自治を求めてイラク政府と戦うタルトに対しては支援した。敵の敵は友である。同様にイラク側かイランのタルトを支援した。フセイン元大統領時代、イラク軍はタルトに対して化学兵器を使って大虐殺を行った。タルト内部の対立、タルト対所属国との戦いが複雑にからまり、タルトの団結も損なわれ現代に至っている。さて、現代のタルトで注目されるのは何といっても新生イラクでのタルトの地位である。既によく知られていることであるが、フセイン体制崩壊までのイラクはシーア派に比べて少数派のスンナ派がフセインの下で主導権を握っていたわけである。新生イラクの国づくりの第一歩として2005年1月末にイラク国民議会選挙が行われた。当然のことながら、人口の60%を占めるシーア派が第一勢力となった。人口比20%のスンナ派はシーア派に比べて劣勢は自明のことであったので多くは選挙をボイコットした。

そして、スンナ派の有力宗教組織であるイスラム聖職者教会はこの選挙と今後発足する移行政府は正当性に欠けると非難した。議席一位はシーア派の政党連合「統一イラク同盟」、二位はタルト系二大政党(タルト愛国同盟とタルト民主党)を軸に北部のタルト自治区をまとめた政党連合「クルディスタン同盟」となった。そして、「統一イラク同盟」と「クルディスタン同盟」の連立協議がまとまり、タルト愛国同盟のタラバーニ議長が大統領に就任した。タラバーニ大統領はイラク北部アルビル近郊で生まれ、15歳でタルト民主党に入党した。1975年に愛国同盟を結成し、旧フセイン政権を倒すためにイランと接近し、イラン・シリアに人脈を持っている。彼はスンナ派のイスラム教徒である。イラクの派閥をシーア派とスンナ派、それにタルトと分けるのはあくまでも便宜上であってこの3者は同質ではない。シーア派とスンナ派と分けるのはイスラムの宗派による分類である。宗派で分けた場合にタルトはスンナ派となる。タルトというのは民族分類である。タルトという分類に対するのはアラブ民族となる。

「イスラーム原理主義」の思想と行動

このように、イスラーム主義運動はアラブ世界の政治の有力な要素となってはいるものの、これまでのところ代替肢とはなり得ていないのが現状だろう。イスラーム主義が部分的に代替肢となった事例は、外国勢力による占領や内戦といった特殊な、あるいは過渡的な政治・社会状況に置かれた場合だろう。占領軍への抵抗や敵対勢力との軍事的対決といった活動が政治の中心的課題となってしまった特殊な示幸な状況下においては、イスラーム主義運動の規範的な現状批判の力や政治参加の経路としての機能に加え、非合理的動員力を持つという性質が特別に有用となる環境が整備される。パレスチナの「イスラーム抵抗運動(ハマース)」や「パレスチナ・イスラーム・ジハード運動」、南部レバノンでイスラエルの占領に抵抗した「神の党「ヒズブッラー」にみられるように、自爆攻撃すら実行する実動部隊を動員することにより、イスラーム主義運動が特殊な環境条件の下で相対的に有力な政治勢力として浮上する事例がある。

先に「運動」が「全体社会」との間に摩擦を生じ得ることを指摘しておいた。「全体社会」に侵人した「外敵」との問にこの摩擦を生じさせることで、イスラーム主義運動のこの側面は、一時的に解消されるどころか重要な利点にすら転じる。しかし皮肉なことに、このような特殊条件はイスラーム主義運動の力が一囚となって外敵が追放される、あるいは内戦が終結して平時に戻る、といった時点で失われる。「運動」の一定の成功により、それを促進した環境要因が失われてしまうというジレンマである。このように、現実政治の上でイスラーム主義は一進一退を繰り返している。一部で生じてきた「イスラーム原理主義」と呼ばれる過激な行動に話を進める前に、ここで「イスラーム的解決」論がアラブ世界の知的状況に及ぼした長期的影響について付言しておきたい。

「外来的なもの」と「イスラーム的なもの」に世界を二分割し、前者を排撃して後者に多数派の結集を図るという「イスラーム的解決」論が提示しか論法は、広く受容された。アラブ世界の問題を「外来的なもの」の責に帰する風潮は以前から存在していた。しかし、イスラーム主義は「外米的なもの」と「イスラーム的なもの」の区分を宗教的な世界観に立脚して行うという新たな傾向をもたらした。これが外部の勢力に宗教的・超自然的な「悪」の属性を付与する発想につながってゆく。イスラーム主義運動の行き詰まりとともに、宗教的・超自然的な「悪」を外部世界に想定する思考法が、運動そのものと、それを有力な政治勢力として抱えるアラブ社会全体の知的状況に甚大な影響を及ぼすことになる。イスラーム主義運動の一部は「イスラーム原理主義」と呼ばれる過激な思想を発展させ、それにもとづいた直接行動に向かう。これまでに、「イスラーム的解決」論は「イスラーム的解決」を目指す「運動」が「全体社会」を包摂することにより「既に問題が解決した状態」としての理想社会が出現すると想定することを示してきた。

そして「運動」という「部分社会」と「全体社会」との間には現実にははなはだしい懸隔があるが、その解消に関して、「運動」論は非常な楽観主義の立場に立つことも指摘した。イスラーム原理主義とは、この「運動」と「全体社会」との懸隔を逆に悲観的にとらえ、「運動」の外側にある「全体社会」に直接的な攻撃を仕掛け、縮小・消滅させようとする思想と行動といえよう。いわば「全体社会」の縮減によって「運動」が「全体社会」を包摂した状態を作り出そうとするのである。イスラーム原理主義は、概念的に三つの類型に分けられる。第一の類型は、腐敗した「全体社会」の改善を不可能とみなし、自らの「運動」体だけが「イスラーム共同体」であると考える立場である。この立場の運動は「全体社会」から離脱して接触を絶ち、自ら新たな「全体社会」を作ろうとする。この立場を思想的に示しだのが、エジプトの「ムスリム集団」(メディアでは「不信仰宣告と聖遷団」と呼ばれる)の指導者シキグリー・ムスタファーである。ムスタファーは一九四二年に生まれ、エジプト南部のアシュートでムスリム同胞団の活動に加わるが、一九六五年の弾圧により投獄される。ここでムスタファーの思想の過激化が進む。一九七一年にサダト大統領により釈放されるが、現存の社会に対する極端に悲観的な思想を発展させ、実践に移した。

ムスタファーは、現存のイスラーム世界が全体として不信仰に陥っていると断定する。彼は神の啓示した最後の宗教が失われたという認識から、終末意識を高めるようになる。そこから、最後審判により不信仰者として地獄の罰を受けたくなければ、その前にイスラーム教に則った共同体を形成して社会から離脱し、終末の日を待たなければならないという発想が生じてきた。こうして成立したムスリム集団は、しかし、反社会的集団としてマスコミの指弾を受けることになる。一部の団員の逮捕に対してムスリム集団が反撃に出たのが、一九七七年のザハビー前ワクフ(宗教寄進財団)・宗教問題相の誘拐・殺害事件である。人質と引き換えに団員の釈放を図ったものとみられるが、交渉は失敗した。逮捕されたムスタファーは、死刑判決を受け、翌年に処刑される。

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